1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 自分の関心生かした近畿大での授業 教員の交流から生まれた「必読書」:私の謎 柄谷行人回想録㉗

自分の関心生かした近畿大での授業 教員の交流から生まれた「必読書」:私の謎 柄谷行人回想録㉗

記事:じんぶん堂企画室

2005年、ニューヨークでの柄谷行人さん。コロンビア大学で教えたのもこの年が最後になった=本人提供
2005年、ニューヨークでの柄谷行人さん。コロンビア大学で教えたのもこの年が最後になった=本人提供

――『トランスクリティーク』とNAM、『世界史の構造』と、難しい話が続きました。聞き漏らしていた著作や社会運動以外のことで、いくつかお聞きしてもいいですか。

柄谷 忘れていることが多いと思うけど……。

――話しているうちに思い出すことがあればいいのですが。まず、近畿大学でのことについて。柄谷さんは長く法政大学で英語を教えていたわけですが、1997年に近畿大学文芸学部大学院研究科の特任教授、翌年には専任の教授になります。学部長をしていた“内向の世代”の作家・後藤明生さんに誘われたというのが、直接のきっかけなのかなとは思うのですが。

柄谷 そうですね。後藤さんと知り合ったのは60年代末だけど、よく顔を合わせるようになったのは、90年代に群像新人賞の選考委員で一緒になってからです。その頃、後藤さんは近畿大学の教授をしていました。

作家の後藤明生さん(1989年)
作家の後藤明生さん(1989年)

――確かに、後藤さんによると、群像新人文学賞の選考会の後、「酒の勢いを借りて」頼んだ、とあります。「彼は例の困ったような笑みを浮かべた表情で、承知してくれた」と(「柄谷行人と私」『「国文学解釈と鑑賞」別冊柄谷行人』)。

柄谷 文芸学部というのは、旧来の文学部とは異なるものにしようということで設立された実験的なものだったんです。面白いなとは思いました。最初は専任ではなく、特任教授として年に2回の集中講義を担当しました。その後専任になった理由の一つは、関西にいた母親が施設に入ったからですね。もう一つは、アメリカの大学で専任になるつもりだったから、兼任できる条件のところなら、日本でも教えられるかなと思って。法政では無理だったから。
 当時総長だった、世耕政隆さんの存在も大きかったね。

――文芸学部創設を悲願としていた人ですね。自身は医者で、詩人でもあり、後藤さんを学部長として呼んだとか。

柄谷 僕ら仲間内では、“啓蒙専制君主”って呼んでた(笑)。中上健次に紹介されたんだと思う(中上自身も演劇・芸能専攻で教えた)。世耕家は中上と同じ新宮の出身だから、知り合いだったんだろう。中上が世耕さんにいろいろ吹き込んだんだと思うけど、新宿の飲み屋に呼び出されて何度か会った。本来はそんなところに来るような人じゃなかったんだろうけど。以来、互いに好感を持つようになった。

――縁があったんですね。住まいも尼崎に移しましたね。

柄谷 実家です。最初は毎週東京から通っていたんだけど、アメリカに移住するんだったら、実家に荷物を置いておいて必要なときに短期滞在すればすむ、と思ったんですよね。

各地から集まった学生

――授業は、どんなことを扱ったんですか?

柄谷 アナボル論争(大正期の社会・労働運動の論争)とか日本資本主義論争(昭和初期の日本の社会的な段階を巡る論争)、他には、ウォーラーステインの「世界システム論」、短歌論……。『トランスクリティーク』を書いていたときには、それについてもやったし。

――なかなか難しそうですね。

柄谷 まあ、僕は手加減がないからね(笑)。好きなように、興味のあることをやっていただけで。学生はよく受け止めてくれた。理論的なことへの理解力も高かったよ。ゼミ生には、市川真人君(文芸評論家)や江南亜美子さん(書評家)、倉数茂君(推理作家)、廣瀬陽一君(文学研究者)もいました。市川君と倉数君は、近大の大学院に入るために東京から来た。特に、最初の数年は熱気がありましたね。学者になろうとか何とかじゃなくて、純粋に文学や批評が好きだから来た、という学生ばかりでした。週2コマ講義があって、その後で飲みに行ってワイワイやって、楽しかったですよ。

――さらに2002年には、近畿大学が新設した国際人文科学研究所の初代所長に就任します。

柄谷 当時、アメリカの大学で教授になる予定で、近大はやめようと思っていたんです。そのことを坂口安吾が専門だった同僚の関井光男さんに伝えると、僕がやめなくていい体制をつくるから、と。それで任せたところ、気がついたら、人文科学研究所が設立されて所長になることに……。

――なんだか話が大きくなっていますね。

柄谷 幽霊所長かと思ったら、全然そうではなくて。普通の教授よりはスケジュールの融通が利いて長期留守にしやすい、という程度でした。
 近大のゼミで教えるのは最初は楽しかったんだけど、結局、定年まで待たずに数年早く退職しました。その頃、ずっと迷っていたアメリカ移住は断念して、東京に戻ることを決めた。今後は物書きに専念しよう、外国へは講演旅行に行ったり、一学期のみセミナーを受け持ったりするような、不定期で気ままな形で行くことにしよう、と思った。その流れの中での退職でした。

――年譜によると、2006年3月だそうです。楽しくもあった近大を辞められたのはなぜですか。

柄谷 法政では僕は基本的に英語教師でしたが、語学教師というのは楽だけど退屈。近大に移ってはじめてその時に考えていることを自由に話せるようになって、それはそれでよかったけれど、問題もあってね。

――どんな問題が?

柄谷 僕は、自分がその時考えていることしか教えられないんです。過去に書いたことを教えるのは無理。よく毎年全く同じ授業をやっている人がいるけど、僕は絶対にできない。過去の仕事には飽きちゃってるから。だけど、今考えていることを話してしまうと、気が済んじゃって、今度は書く気がしなくなってしまうんです。これは、物書きとしては困ったことでした。

――確かにもったいないです。ソシュールやヴィトゲンシュタインは、講義ノートが後に本にまとめられましたよね。柄谷さんはノートなどは残していないんですか?

柄谷 ないですね。いま思うと、本になるようなテーマもたくさんあったんだろうけど。法政で語学教師に甘んじさせられていたのは、一種の冷遇だったわけだけれど、物書きとしてはむしろよかったのかもしれないね。

「必読書」で訴えたかった教養の重要性

――忘れられないのが、『必読書150』。国際人文科学研究所ができるときに、柄谷さんや作家の奥泉光さん、造形作家の岡崎乾二郎さん、浅田彰さんといった、近大の教授やゆかりのメンバーが編者になって作った、古典を中心に人文社会科学・海外文学・日本文学から50冊ずつ集めたブックガイドです。柄谷さんの序文で「このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである」という強烈なくだりがあるんです。大学生のときに手にとって、聞いたこともない本もかなりあって震え上がりました(笑)。今見てもかなり難しいものも入っていますが。

柄谷 実は、筆者も全員「サル」なんですよ(笑)。サルがサルに説教するというのがミソ(笑)。僕も読んでない本が結構入っています。

――そうなんですか。結構真に受けていました。

柄谷 でも、古典を読むのは本当に大事なんですよ。1968年以降、新左翼運動やポストモダンの風潮のなかで、しきりに知識人や教養主義が批判されて、古典なんて読む必要はないという風潮が蔓延していた。奥泉君がそれを嘆いていて、そこからこの本のアイデアが出たのだったと思います。近大では、学生だけじゃなくて、教師たちともよく飲んだりして集まっていたから、そういう場から生まれた企画だったんじゃないかな。

――単に教養主義を復活させようということではない、とも宣言されています。

柄谷 教養主義なんて最悪です。ただの権威主義だから。古典は、権威だからじゃなくて、ずっと人類が受け継いできた共通言語だから大切なんです。昨今は、一読しただけで意図や内容が簡単に分かってしまうような、薄っぺらい本ばかりでしょう。古典は、何度も読んでいるうちにだんだん染みてくる、何十年後にふと腑に落ちる、そういうもので、辛抱がないとつきあえない。だけど、考えるということは、そういう地道な営みからしか出てこない。少なくとも、現実を変える力を持つような思想は出てこない。

――本を読んで考えるのはいいけども、その思想を実践するときに必要なのが、教養じゃないのか、ということですね。その“教養”というのが“古典”ということになるのでしょうか。

柄谷 そうですね。思想というものは、過去の作品との関わりの中で生まれるものです。たとえばデリダもドゥルーズもフーコーも、結局マルクスやフロイトの読み直しをやっている。今も僕は、マルクスも読まないで何が考えられるのか、と思ってますよ。今マルクスを読んでいる人たちは、ほとんどの場合、本当に読んでいるようには思えない。マルクスだろうと誰だろうと、自分たちの薄っぺらな論理にひきつけて矮小化するだけ。マルクスが自己啓発の教師にされている(笑)。古典は、自分の論理で捉えられないものだからこそ読む価値がある。自分の論理にひきつけるんじゃなくて、自分が相手の論理のなかに入っていくという読み方じゃないと、意味がない。

訪ねてきた苦労人、後に世界的な人類学者に

京都を訪れたグレーバーと=柄谷さん提供
京都を訪れたグレーバーと=柄谷さん提供

――ちょっと脱線しますが、先日、昔の写真をいくつか見せて頂いたときに、若かりし日の人類学者デヴィッド・グレーバーと撮ったものがあって、ちょっと驚きました。グレーバーはイェール時代の教え子だったんですか?

柄谷 いや、彼はイェール大学で先生をしていたんですよ。といっても、専任の教授ではなくて講師ですね。僕が2003年にコロンビアで教えていたときに、『トランスクリティーク』に感銘を受けたから会いたい、というメールがきてね。それで会いました。後に大スターになったけど、その頃はいろいろと苦労していた。彼は、人類学者としてはむしろ伝統的なタイプなんだよ。マダガスカルをフィールドに古典的研究をしたし、マルクスもよく読んでいたから、僕と合うところがあったんだろうね。

《デヴィッド・グレーバー(1961~2020)は、アメリカ出身の人類学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授。主な著作に『負債論』『ブルシット・ジョブ』『民主主義の非西洋起源について』など。米国発のオキュパイ・ウォールストリート(ウォール街占拠)など、世界の反グローバリゼーション運動にも影響を与えた》

――2016年に邦訳された主著の一つ『負債論』の参考文献には、たしかに『トランスクリティーク』が入っていました。貨幣や金融の本質を「返済しなければならない」という道徳観念も含めて解明したもので、柄谷さんの交換様式と通じるところがあるのかもしれないですね。

柄谷 彼とは、『トランスクリティーク』についてもいろいろ話したはずなんだけど、すっかり忘れてしまった。

――どんな人でしたか。

柄谷 シャイで繊細でロマンティックで、同時に、自信家で皮肉屋であまのじゃく。理論的なことを話し出したら、早口の饒舌で止まらない(笑)。僕と一緒で、日常生活のことはよく理解できない(笑)。二人とも学者然としたタイプじゃないから、学生同士の遊び友達みたいな関係でした。当時は、僕が60歳ちょっと、彼が40歳ちょっと、だったかな。家を訪ね合ったり、誰かの講演を一緒に聞きに行ったり、飲みに行ったり……。

――社会運動にも参加していた人ですが、政治的な立場でも共通するところがあったんですか。

柄谷 そうですね。二人とも、マルクスの徒だけどアナーキズムに親和性があった。彼は、反グローバリゼーションのデモなんかに熱心に通っていました。そういうのが過激だとみなされたせいもあって、イェールでは専任になれなかった。非常勤講師だと食べていけないから、彼はいつも困ってた。歯が悪くても治せないとか……。本も図書館で借りるんだと言って、『トランスクリティーク』もずっとイェールの図書館から借りっぱなしだったらしい(笑)。
 彼を専任にするようにというイェールへの嘆願書には、僕も署名したよ。だけど、結局、アメリカでは職が見つからず、イギリスに渡りました。有名になったのは、その後ですね。

――ロンドン大学ゴールドスミス校で教えていた2011年、オキュパイ・ウォールストリート運動の指導者として世界的に有名になりましたよね。“どうでもいい仕事”からの解放を説いた『ブルシット・ジョブ』(2018年)も流行語になりました。

柄谷 オキュパイで有名になったときは、妻と一緒に拍手喝采(笑)。うれしかったですね。一番親しかったのは、その前です。2006年だったかな、彼が京大で連続講義をやったときには、学生に「カラタニと友達だ」と言ったら信じてもらえなかったとか(笑)。京都では、清水寺なんかの典型的な観光コースに連れて行きました。そうしたら「皆、ホームレス見学ツアーとかいって、左翼的な関心のところにばかり案内してくれるんだけど、人類学者としてはブルジョワ的なものが是非見たかった」といって喜んでくれた(笑)。

――写真はそのときのものなんですね。ポール・ド・マンやジャック・デリダとの交流についてはお聞きしていましたが、グレーバーと、しかも有名になる前から付き合いだったというのは意外でした。

柄谷 英語で『トランスクリティーク』が出たことで、いろいろな縁ができましたね。

伝説の草野球チーム「カレキナダ」

――珍しい写真ついでにお聞きすると、野球のグラウンドを背景に柄谷さんの肩に手を回しているのは、元阪神の野球選手・バッキーだとか。91年撮影らしいですね。柄谷さんは阪神ファンなので、意外というわけでもないかもしれませんが。

柄谷 いや、意外ですよね(笑)。「カレキナダ」の対戦のときに、誰かが助っ人として連れてきたんだけど、誰がどういう経緯で、というのは忘れてしまった。僕はピッチャーで、ヒットも打ったから、バッキーにもほめられた。お世辞だろうけど。

阪神タイガースで1960年代に最多勝や沢村賞を獲得するなど活躍したジーン・バッキーさんと柄谷さん=91年、柄谷さん提供
阪神タイガースで1960年代に最多勝や沢村賞を獲得するなど活躍したジーン・バッキーさんと柄谷さん=91年、柄谷さん提供

――「カレキナダ」は、柄谷さんや蓮實重彦さん、中上健次さんがいた伝説の草野球チームですね。一度お聞きしておきたかったんです。調べてみたら、赤瀬川原平さんが尾辻克彦名義で、結成の経緯を書いていました。赤瀬川さんによると、蓮實さんや浅田彰さんと東京堂書店でイベントをやった後、飲み屋で結成に至ったようです(「名左翼手はぐっとこらえる」『超プロ野球』)。最初の試合は、84年だとか。

柄谷 どうだったかな。きっかけは忘れたけど、中上に声をかけられたんだろうね。僕も試合には最初から出ていたと思うよ。

――柄谷さん、最初は二塁手として出ていますね。文学関係者ばかりのチームで、一部を挙げると、批評家では、蓮實重彦、渡部直己、絓秀実、作家だと中上健次、高橋源一郎、立松和平、詩人のねじめ正一……。ほぼ初対面の人もいたようです。なんと審判は吉本隆明がいいということで、蓮實さんと浅田さんで頼みにいった、とあります。そのときはいい感触だったものの、実現はしなかったようですが。

柄谷 吉本さんが審判になったらおかしかっただろうね。

――柄谷さんは守備がうまかったとほめられています。

柄谷 僕に言わせれば、僕以外に運動のできるやつはいなかったな(笑)。

――そうなんですか。赤瀬川さんは、キャッチャーだった蓮實さんはうまいと絶賛しています。ファウルを取りに行くときにマスクを外すしぐさが軽やかだとか。あと、笑ってしまったのは、「蓮實さんのヤジがまた凄い」という。「味方だからいいですけれどね、敵チームは、内面につき刺さってくるというヤジですよ」(笑)。

柄谷 なるほど(笑)。僕たちの世代は、小さい頃に野球ぐらいしかやることがなかったから、皆一応できるんです。

――ちなみに、最初の打席に立ったのは中上さんで、ご本人がこのときのことを書かれています。「起死回生の〝一塁打"」というエッセーですが、長打性のクリーンヒットを打ったけども、体が重くて一塁に到達するのがやっとだったという。

柄谷 そうだった。ライトまで飛ばしたのに、一塁でアウトになったこともあった(笑)。

――その後も活動していたんですか?

柄谷 不定期だけどね。僕は途中からピッチャーになりました。僕は若い頃には球の速さには自信があったんだけど、コントロールがいま一つでね。だけど、50歳くらいのときに、なぜか急にコントロールが良くなったんですよ。以来、僕が先発投手でした。

――不思議なこともあるものですね。練習の成果ですか?

柄谷 壁野球のおかげかな(笑)。試合はいつもぶっつけ本番でしたけどね。

メンバーは、一回だけの人も多かった。ユニホームもなくて、“普段着野球”って言ってた。92年に中上が亡くなった後は、熊野大学(中上が提唱した市民向けの公開講座)の夏季セミナーの度に、“追悼野球”と呼び習わして地元チームと対戦していた。カレキナダの最後の試合は、10年ほど前に東京でやったと思います。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、「世界史の構造」についてなど。月1回更新予定)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ

じんぶん堂とは? 好書好日